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エリザベス ハイネちゃん

青い目の人形

「エリザベス ハイネ」ちゃん

 

 

青い目の人形 青い目の人形「エリザベス ハイネ」ちゃん

 

 

日露戦争後、日本が満州の利権を握ると、中国進出を窺っていたアメリカ合衆国との間で緊張が高まり、さらに1924年に(通称「排日移民法」)の成立も両国民の対立をさらに悪化させつつあった。

そんな中、1927(昭和2)年3月、日米の対立を懸念し、その緊張を文化的に和らげようとアメリカ人宣教師 シドニー・ギューリック博士(1860-1945)が提唱して親善活動が行われた。

その一環として米国から12,739体の「青い目の人形」が贈られた。仲介者は渋沢栄一であった。

「青い目の人形」は全国各地の幼稚園や小学校に配られ歓迎された。

返礼として、渋沢栄一を中心に「答礼人形」と呼ばれる市松人形58体が日本からアメリカ合衆国へ贈られた。

しかし日本に贈られた「青い目の人形」は、太平洋戦争(第二次世界大戦)中には、反米、反英政策により敵性人形として多くが焼却処分された。

しかし処分を偲びなく思った人々は人形を隠し、戦後に学校等で発見された。

現存する人形は2023年現在、343体で、日米親善と平和を語る資料として大切に保存されている。

友情のかけ橋として米国からやってきた「友情人形」は12,739体が、米国の宣教師 シドニー・ルイス・ギューリック博士が米国中に呼び掛け資金を用意し、両国の子供たちが友情を深めあうようにと、1927年(昭和2年)日本に贈られた。

この人形は全国の幼稚園や小学校に配られ、三重県にも194体が届いた。現在三重県で確認されているのは、9体(1体は東京で保管)。

花垣小学校との出会いは、1927年12月。児童全員が金坪までの約3キロの道程を歩いて、人形を持って帰る校長先生を出迎えた時が最初だった。

しかし、1941年に太平洋戦争がはじまると、この贈られた人形さえも敵視され、焼かれる運命をたどった。

戦争が激しくなって人形処分の命令が出された時、当時の校長先生はそっと講堂の裏屋根に隠した。

戦後、1979年物置からこの人形は発見された。

全国で334体(所在不明4体を含む)、三重県では現在9体が確認されており(1体は東京で保管)、伊賀地方では阿山小学校と花垣小学校の2校にある。

現在は地域の宝として、花垣地区市民センターで保管されている。

答礼人形 「ミス三重」の会でエリザベス ハイネちゃんが紹介されました。