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予野

余野とも書いた。名張川の支流、予野川上流部に位置する。

花前川の両岸の緩やかな丘陵地に集落が広がる。

奈良期から奈良の興福寺に八重桜を度々献納し、公事免許を受けたという伝承があり(伊水温故)、現在も花垣神社の東方には樹高10m余の4代目八重桜がある。

 

 

 

中世

予野荘

 

鎌倉期から見える荘園名。伊賀国名賀郡のうち。猪田郷に属す。花垣荘ともいう。

天養元年3月29日の太政官符案に「又猪田郡(郷カ)内予野村公田卅余町、怱号興福寺西金堂領、同不輸租調」とあり、平安末期予野村に興福寺の支配が及んでいたことが知られる。(三国地誌/平遺2525)。

 

 

 

近世

予野郷

 

江戸期の郷名。伊賀郡のうち。予野村を中心とした一帯の広域的な総称で、東は古山郷と接する。現在の上野市の西南部の山間地にあたる。

所属した村は「伊水温故」「三国地誌」では予野・治田(はった)・白樫・大滝(おおだい)・桂の5か村、「宗国史」ではこれに笠部・新田の2か村を加え、また、予野村を予野上村・予野下村の2か村に文載して計8か村とする。なお、笠部村は「三国地誌」では依那具郷に属するとされる。

 

 

 

近代

予野村

 

江戸期~明治22年の村名。伊賀郡のうち。はじめ伊賀上野藩領、慶長13年からは津藩領。

村内は上予野村・下予野村と分けられることもあり、「旧高旧領」には、この2か村として見える。

また、予野上村・予野下村とも称し、現在の花垣小学校付近から東を上村、西を下村としたと伝わる。

徳川家康の家臣として、与力30騎・伊賀同心200人を支配下におき、旗本8,000石であった服部半蔵(千賀地半蔵ともいう)は当地の出身。

また、城代家老藤堂采女は当地の出身で、当地は采女家の給地である。

明治4年安濃津(あのつ)県、同5年三重県に所属。同22年花垣村の大字となる。

 

 

 

近代

予野

 

明治22年~現在の大字名。はじめ花垣村、昭和30年からは上野市の大字。(現伊賀市)

明治22年の戸数187・人口811、田142町・畑61町(町村分合取調書)。

昭和35年の世帯数191・人口866。明治25年花垣村第一尋常小学校を設立。

 

 

予野公民館

 

 

 

 

【花垣神社】

 

花垣神社のその昔は池辺社・弁財天であったと考えられるが、八重桜を都へ献上した縁で、寛弘元年(1004))奈良の春日宮を勧請した。その後は池辺社、春日社をともに祭祀してきた。

神社の棟札によれば、寛永二年(1624)予野出身の城代家老 藤堂采女によって池辺社、春日社が再建された。

池辺宮奉加帳筆頭により、藤堂家藩主より奉納があったようである。

西蓮寺過去帳より、後の慶安元年(1648)には春日社を上葺、寛保四年(1744)には池辺社の拝殿を、寛延三年(1750)には楼鐘堂が藤堂采女の曾孫の藤堂元甫、玄孫の元社によって建立され、同時に藤原元甫は絶えていなかった八重桜※を奈良から取り寄せ、移植している。(※八重桜については花垣のヤエザクラを参照) 元禄3年(1690)当地を訪れた松尾芭蕉は「一里はみな花守の子孫かや」と詠んでいる。

天保六年(1835)鳥居の再建、江戸時代の万延元年(1860)の上葺、彩画修理の棟札にも藤堂采女の名前が記され、江戸末期まで度々支援を受けていたことが窺われる。

又、隣の池邊寺は池辺社、春日社の別当寺であったことが棟札より推察することができる。

明治41年(1908)神道統合によって、予野、大滝、桂、三村の神社、新祀を合祀して三郷神社となり、昭和5年(1930)からは花垣神社と名称を替え、御大記念事業として、正殿葺替え、西側石垣、透塀の新築、勾欄付階段の新築、新撰殿を西方に移転、東方に賽殿を新築などの大改修が行われている。

昭和20年(1954)以降に大滝・建部神社、桂・乎美祢神社が地元に分祀し、予野は春日神社を主神とした花垣神社として現在に至る。

「花垣の史跡・城跡」平成19年3月版・花垣歴史研究会編纂 より一部訂正して抜粋)

 

 

 

 

【千賀地城跡】

 

千賀地城跡

 

藤堂藩伊賀上野城代家老 藤堂采女正(とうどううねめのかみ)の生誕地と伝え られる。

この城は藤堂采女正の父、藤堂則直の居城であった。

千賀地と称するのは 地名を指していたのであろう。

服部正成の父保⾧が築いた城と伝えられ、城跡には服部半蔵・藤堂采女正誕生の地 と刻んだ石碑が立つ。

千賀地城は20メートル四方の小規模ながら北東西の三方に土塁を廻らし、見張り台を 備えた山城だった。

南に向かって田園風景が望め、千賀地半蔵保⾧が室町後期に築 いたとされる。

千賀地城跡には、1958年(昭和33 年)に予野史蹟顕彰会が建てた「服部半蔵、 藤堂采女正誕生の地」の石碑がある。

慶⾧13年(1608 年)藤堂高虎につい て伊賀、伊勢に入った藤堂采女正の禄高 は、3500石であり、予野には125 0石の知行地があって、江戸末期まで上 予野村(上出、前出等)には30余名の被 官(家来)がこの城を護っていた。

現在、地元地区の人達によって守り続け られている。

 

 

石碑

 

 

 

【花垣の八重桜】

 

花垣の八重桜は一つの花に雌 め しべが2本ある珍しい特徴の花である。

奈良時代聖武天皇の頃、この地に「珍しい花が咲く」として朝廷に献上されたと伝 わる。

平安時代、一条天皇の皇后上東門院によって八重桜の故郷のこの地に一株を 植えられ、予野を花の里花垣の庄と名づけられた。

この桜を守るため朝廷が『花守』を派遣したとされ、地元には現在も子孫が残る。

伊賀市出身の俳聖・松尾芭蕉は、1690年に予野地区を訪れた時、「一里(ひ とさと)はみな花守 (はなもり)の子孫かや」(この一里の人たちは、みんな花 守の子孫なのだろうか)と詠んだとされ、 八重桜公園隣の花垣神社境内入口にそ の句碑が残る。

伊賀にある江戸時代の芭 蕉句碑の数少ない(六基)の一つである) 樹齢263年だった「3代目」八重桜 は1921年(大正10年)から三重県 の天然記念物に指定されていたが、老化 で枯れてしまった。

その後、2006年(平成18年)に遺 伝子を受け継ごうと地元の「予野八重桜 保存会」や地区が総力を注ぎ遺伝子を受 け継ぐ「4代目」が里帰りして植えられ た。

土壌改良などを経て、令和5年には高 さ約8メートルに育っている。 現在、「花垣の八重桜」は八重桜保存 会や地元の人達の手によって日々成⾧ している。

 

 

花垣の八重桜

 

 

 

 

歴史をたどって

 

西暦746

伊賀国予野村【現在の花垣神社の森】 珍しい 桜の花【雌が2本花びらが 30枚 近く八重に重なりピンク色】が咲いているのを見つけ都に献上したと残されて いる。その桜 が奈良の興福寺の境内に植えられており当時の聖武天皇の目に留ま大変大事にされていたとの事  。

 

西暦1005

都が奈良から京都に変わり一条 天皇の時代に皇后上東門院様を慰め様と其桜を京都に移さんとされた時、興福寺の僧侶達が大反対された。

その桜を大事にする心に 大変感動され移すのを断念されると共に、垣根を施し我が帝の桜となずけられ花  が 咲く期間は花を守る役を仰せ付けられ大変大事にされたとの事。

又、桜を送って予野を花の里花垣の庄となずけられ、そ のヒコバエを贈られたとの 事こ と 。

その 為現在でも この予野の地には、花守の姓が残っている。

 

1045年

上東門院 の孫に当たる あたる 良子内親王が伊勢神宮の斎王を勤められ 、都 に帰えられる時に、 花 垣の里 に立ち寄られた事が都での土産話となり、多くの歌人 がこの地 を訪れ和歌を 歌われたとされている。

 

1690年

その話 を聞き、当時松尾芭蕉がこの地を訪れたとの事 。

しかし、そ の頃 には桜の木も枯れて無かったとかかれている。 残念がった芭蕉は『一里はみな花守の子孫かな』と言う句を残して居り、現在もこの花 垣神社の境内にある。

 

1746年

現在の桜 は、予 野の 出身の侍 藤堂采女元 甫 ( 藤堂采女家は予 野の 出身 の千賀地家 と深い関係 があり伊賀上野城 の上代家老を務めた人物】により奈良の八重桜のヒコバエを移し 植えられたと記載されている。

 

1921年(T10)

三重県の史跡天然記念物に指定され、地元 予野 には『 八重 桜 顕彰会  』 があり、様々和歌 や俳句が歌われていたと言われている。

 

1983年(S58)

その桜も老朽老木となり、色々と延命措置がとられたが、枯れてしまう。

その遺伝子を 関西の独立行政 法人) 林木育種センターで伝承 。

 

2006(H18)

「四代目 花垣八重桜」として里帰り。 現 在 八重桜の成長を願い「八重桜観桜会」として地元住民で守られている。