木津川の支流広川の上流に位置し、西は奈良県の月ヶ瀬石打(奈良市)と接しており、さらに点(三県境)で京都府の田山(南山城村)とも接している。北に山を越えると三重県の島ケ原(伊賀市)となる。地名は、ブナ科の常緑喬木である白樫が繁っていた地で
あることにちなむという説がある。
近世
白樫村
江戸期~明治22年の村名。伊賀国伊賀郡のうち。
はじめ伊賀上野藩領、慶長13年からは津藩領。村高は、天和年間頃の本高217石余、「天保郷帳」285石余、「旧高旧領」284石余、寛延年間頃の家数60・人数275、馬10・牛1(宗国史)。
寺社は真言宗豊山派慈尊寺、八幡神社があり、この神社は、のちに当村と治田(はった)村の村社を合祀して二郷神社となり、大正11年岡八幡神社と改称された。
明治4年安濃津(あのつ)県、同5年三重県に所属。 同22年花垣村の大字となった。
近代
「白樫」は明治22年~現在の大字名です。はじめは花垣村、昭和30年からは上野市 (現伊賀市) の大字となった。
明治22年の戸数99・人口451、田61町・畑58町(町村分合取調書)。
昭和35年の世帯数116・人口527。昭和40年に大阪~名古屋に通じる名阪国道が開通、白樫インターチェンジが開設され、交通が便利になった。
国道周辺に新興住宅地や機械製造工場等が建設され、次第に発展してきている。
岡八幡宮
月ヶ瀬街道を奈良に向かう途中、白樫の地に岡八幡宮がある。
この神社は、源頼朝によって創建されたもの。
頼朝は文治5(1189)年6月、奥州合戦での必勝祈願の為、鎌倉鶴岡八幡宮に参拝した。
その時、戦いに勝利し日本を平定した折には、八幡宮の末社を全国六十余国に建立し、第一番を伊賀とする神意を受けたそうである。
奥州合戦は、栄華を誇った奥州平泉の藤原氏を滅ぼすためで、義経が自害した戦いでもあり、頼朝にとっては大きな意味を持つ合戦だった。
翌年建久元(1190)年、勝利した頼朝は、鶴岡八幡宮の第一末社として岡八幡宮を建立し、鶴岡八幡宮神官の弟、豊氏勝宗(とようじかつむね)と社人8人を遣わした。しかし、その後頼朝が没し、この計画は中止され、岡八幡宮は最初で最後の末社となった。
神社での祭事は、「鶴岡八幡宮の遺風古例に習う」とあり、10月15日には例祭が行われる。
宵宮では社人8人が取り仕切る長老構(おとなこう)が今も行われ、820年以上も続いているといわれている。
また、毎年、4月中旬から下旬に鏑馬の神事、槍演舞の奉納が行われ、多くの見物客を集めている。
境内には、宮本武蔵と戦った槍の名手・高田又兵衛(白樫出身)修行の森がある。
その弟子であった亀山城主・中川甚兵衛が又兵衛への礼として奉納した木彫りの神馬も一見の価値がある。
領地没収や戦禍に巻き込まれる等、歴史の波に揺れながらも岡八幡宮は、今も白樫の地に鎮座している。
巨大な古木が拝殿を守るかのように聳え立ち、四季様々な装いを見せる落葉樹は、大きくて深遠な鎮守の森を形成している。
神社への崇敬が絶えることなく、連綿と伊賀の時を刻み続けてきた証が、ここに息づいている。
岡八幡宮鳥居
木彫りの神馬
毎年、4月中~下順に岡八幡宮で行われている流鏑馬(やぶさめ)神事の様子
獅子舞の奉納の様子
高田又兵衛
天正18年(1590)、伊賀國白樫村に生まれ。
幼年時代、八蔵、八兵衛、吉次と呼び、長じて又兵衛と改め、晩年には崇白と号した。
幼くして白樫八幡(岡八幡宮)の社に棲む天狗について武芸の奥義を伝授されたとの伝説もあるほど幼年時代より大人でもかなわぬ程の技量に達していたらしい。
高田又兵衛 肖像(高田憲治氏蔵)
宝蔵院覚禅房胤栄の弟子の中村尚政に入門した後、胤栄の直門となり、慶長8年(1603)10月に宝蔵院流槍術の印可を授かった。
その後は廻国しながら宝蔵院流に新陰流の剣術、穴沢流の薙刀術、五坪流の槍術を融合して、宝蔵院流高田派槍術を完成させたといわれている。
流鏑馬神事とともに奉納される宝蔵院流槍術演舞の様子
元和9年(1623)播磨國明石藩の小笠原忠真に召抱えられ、400石馬廻役の格式にて仕官。
武術指南にあたった同15年(1638)2月、島原の乱における原城攻めには槍手一隊を率いて本丸を陥れる手柄をあげて禄高700石になった。
寛文11年(1671)1月23日死去。
三男の高田吉通が相続して又兵衛を称した。
長男高田深吉は延宝3年(1675)伊賀國に帰郷の後、久居藩(津市久居)に仕えた。
二男の高田吉和は福岡藩(福岡県福岡市)に仕え、四男の高田全吉は小倉に留まった。
墓は豊前國小倉(福岡県北九州市)の峯高寺と伊賀國白樫にある。
高田又兵衛故郷塚は道横の小高い山中腹にある
高田又兵衛故郷塚(供養塔)
慈尊寺
真言宗豊山派・慈尊寺は、少し高台にある。
御本尊の阿弥陀如来像は県指定有文化財であり、特に雨乞いの仏として村人に信仰され、旱害に対する命の綱だった。
毎年七月二十日の土用入りの日には、嵩山頂の愛宕社に神屋井戸の霊水をお供えし、祈願をこめた後、それを龍王池にうつして雨乞いをした。
また、病疫退散祈願のための供養塔も数多く奉献され、その中の一つ元亨元年建立の石造板碑(高さ約1.3m・幅0.3m)は、板碑の少ない当地方では貴重な資料となっている。
弥陀如来像(三重県指定有文化財)
石造板碑(三重県指定有文化財)
筒井順慶首塚
天正13年(1585)伊賀上野城主として、封任していた筒井定次の許へ、気晴らしの静養として順慶が訪れてきたが、病気の然らしめる性か、あたりちらす酒乱の癖は伊賀でも変わらなかった由。
白樫の郷士奥田利兵エは、定次の家臣として順慶の世話役係を命ぜられていた。
天正九年伊賀の乱の時、白樫邑の多くの勇士は殺され、宮を焼かれ、寺を焼かれた。伊賀人にとっては怨み重なる仇と思っていた。
天正13年7月13日夜、上野城内の下屋敷、順慶の宿舎に三人の忍者と共に忍び込み、瑞舜坊順慶を刺殺し首級のみを持って帰り、現在の地に埋めたということらしい。
※胴塚は西大手町の金伝寺内にある。
筒井順慶首塚
一石六体地蔵
元は慈尊寺前の六地蔵の辻に安置されていた。徳川時代、寛永三年(一六二六)の銘が刻まれている。
美術品として優雅な慈愛のこもった格調のある石碑であり、石造美術品としては逸品だといわれている。
一石六体地蔵
砦館の跡
江戸時代には東から山極、菊田、白樫、高田の砦館が一列に並び、それぞれ舌状の小丘に設けられていた。
どの館も土塁や見張り台、空堀などの趾が残っている。これらの館に対し、街道をはさんで南側の丘陵に藤島(としま)館が築かれていた。
黒石地蔵
磨崖仏 鎌倉時代
古くから白樫郷の北辺鎮護の仏といわれる。
樹木に覆われた深い旧山道はここで三又路に分かれて一つは大和路へ、一つは山城路へ通ずる旧山城街道の三国境に石仏は立っている。
銘浄光は願主でもあり作者でもあろうと思われ、まだ若いひたむきな修業のおのずからにおう純粋さが感じられる。
一石六体地蔵
三県境
白樫の北西の端に、三重県、京都府、奈良県の3つの県境が1点に交わる地点がある。
白樫から、月ヶ瀬石打を経て、島ケ原に抜ける道を重・奈良県境を示す標識を50m程度過ぎたあたりから、西に山道に入り、3分ほど登ると、こんもりとした頂付近に「三国交点」の杭などが設置されている。
三県境にある「三国交点」の杭など
三県境への山道入口を示す道路の右側のピンクテープ